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良型の黒鯛が釣れた時、周囲のギャラリーから「ソコデ 竿を立てろ!」等と云う声援を受ける事がある。これは昔から経験的に云われて来た言葉である。「竿を立てろ」と云われてもその言葉の意味も良く理解出来ず、延竿を使っていた新米の頃は斜め四十五度の角度に竿を立てられぬまま何枚の良型黒鯛を逃したか分からない。弾力性に富む庄内竿の延竿では、一瞬の隙に竿先が海中に引き釣り込まれて仕舞って、竿を立て直すのはコツがあり結構難しい。慣れて来て技が上達すれば、上手にあしらう術も自然と身に付き、延べ竿でも上手に竿を立てられるようになる。
リールのなかった時代の釣竿はすべてが延竿であった。その頃の黒鯛釣りは、持ち運びに不便な長い延べ竿が必要であった。今日の道糸の強度の何分の一かの弱くて太いテグスを使っての黒鯛釣は、長い延竿の弾力を使うしかなかった。その弱くて太いテグスを使ってより大型の黒鯛を釣る為の手段として竿の弾力を最大限に利用する事を経験的に知り、三間4〜5尺(約6.6〜6.9m)と云う長い黒鯛竿が作られて来たのである。ちなみにより引きの強い赤鯛を釣るための竿は4間1尺(7.2m)を越えている。
庄内には竿に出来る竹は苦竹の他ヤダケ、真竹(カラダケ)、釣瓶竹、布袋竹等がある。布袋竹は酒田にはフンダンにあるが、何故か鶴岡地区には殆んど見られないと云う。古竹は硬く短い。布袋竹の細く、軟らかいものを選び酒田の人はその1〜2年古を採って来て篠野小鯛やハゼ釣の様な小物釣に使った。布袋竹の穂先の繊細さは類を見ない。小さな魚でも細く胴に乗った時の釣味は独特のものがある。矢竹は苦竹より短く、穂先がない。軟らかいものを選び、穂先を苦竹で継いで主として黒鯛の二歳までの小物釣に使われた。ことに2間1〜2尺(3.9〜4.2m)位の良竿が多い様だ。竹質が肉薄な為、大型が来ると折れることがある。釣瓶竹は主として鳥刺し用として使われ、若干竿としても使われている。また、玉網の材料として多く使われていた。真竹(カラダケ)は長竿としても作られていた。ただし、太くて硬く長い竿は黒鯛よりもスズキ釣に使われた。ただし、名竿として残って居るものはない。又孟宗竹の竿もあってこれもスズキ釣に使われていたようだ。
通称メダケ(女竹=苦竹、矢竹、釣瓶竹を指す)と呼ばれた中で、苦竹は古来より庄内に自生していた竹である。関東で通称メダケと呼ばれていた竹とは明らかに異なっている。江戸に出府した武士たちが帰参時に江戸から船便でそのメダケを送って来て竿を作ったという記録がある。しかしながらそんな竹で作られたと云う名竿は一本も残っていない。関東の竿師は癖の付きやすいメダケを嫌っていたと云われている。
庄内の苦竹を武士たちは竹を掘り上げてから4〜5年と云う長い時間をかけて、細く柔軟でしかも強靭な竿に変身させた。黒鯛を釣るための長竿で、引きの強い黒鯛をいなすにはまず竿を立てることが必要である。竿の立て方であるが、最初の一撃のうちにどこまで竿を立てられるかにある。理想的な角度は45度と云われているが、それは経験と感で自然と覚えて来る。最初の頃は竿先が海中に引きずり込まれ竿の弾力を十分に使えぬままに、いとも簡単に糸を切られてしまう事が多かった。
竿を立たせ海底からある程度魚を浮かせ、後は竿の弾力を十二分に使う事が大事である。これも何度かの経験を積む事で自然と身に付く。後は魚の強弱の引きに合わせながら適度に魚をあしらい、魚が疲れるのを待つだけである。糸が丈夫になった今日ある程度の引きには十分耐えるので、強引に魚を海底から引きずり出すことも可能となった。現在の科学繊維で作られた竿は7:3の調子の硬めの竿にリールをつけているので、魚のあしらいも簡単で十数分もあれば魚を取り込むことが可能である。
本来の竿で弾力を使った釣り方では、たった一枚の魚であっても時間が掛かるがその分釣り味は数段と異なる。近代釣法は少しの経験で大型が釣れる釣法へと変身している。昔の釣は糸の限界、竿の限界、釣師の技と魚との戦いであった。大型を獲るには糸が太く魚がいても中々釣れなかったから釣るための技術を要した。だから大型を釣上げた釣師は、多くの釣師から憧れと羨望の目で見てられ事が常である。そんな昔の釣り方と今日の釣り方では次元が異なってしまっている。
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